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ラノベとゲーム制作かもしれないブログ

オタクが最近読んだ見たラノベアニメ作るゲームの話を書きます。

ラブコメの神様

 

 

「その……」
夕暮れに染まりつつある教室。掃除されているのか、教室は綺麗にされていた。
窓の方から聞こえる喧騒は野球部か何かの部活だろうか。
もう五月も終わりそうだし、そろそろ試合だろうしで、気合の入った練習をしているのだろう。いいことだ。
「坂上?」
 あまりに現実離れしている情況に頭をボッーとさせてしまった。
「え、あ、……っと! その」
 彼女に必死に何かを訴えるように口をパクパク動かす。しかし、音はうまく出て行ってくれない。
 坂上学。十六歳。成績は現国以外それほど特出したものは無い。運動能力もそこまで優れているわけでもない。そうなってくると、学校生活の花形ともいえる彼女という存在もいない。そんな、ないないない尽くしの三拍子が揃った俺にも春が来た。
茅ヶ崎七海。黒髪ロングで、その瞳も艶やかな髪同様、妖艶な黒に染まっていて、見つめられるだけで、石になったように固まってしまう。そんな所謂美少女は俺同様十六歳である。成績優秀、運動親権は分からないが胸は大きい。運動するたびに揺れてそうだ。しかし、そんな彼女にも彼氏はいないのか、あろうことか俺に……。
「さ、さっきのお話し聞いてた?」
「そ、それは。その……」
 しどろもどろになる俺。その間、なぜこうなったのか俺は考え始めていた。

 高校二年になった。二年にもなると、周りの変化に驚かされる。受験だったり、遊びだったり、はたまた、趣味だったり、とみんながみんな何かに熱中していた。
 俺はというと、特に何もない。勉強は人並にしているし、遊びも友達となら行くし、趣味のカラオケも一人で行くし……一年時と何も変わらないと思っていた。
二年も一ヶ月が過ぎると、クラス替えで変わったクラスにも慣れてきた頃合いだ。
登校時、生徒玄関で内履きを履こうと下駄箱を覗くと、内履きに被せるように置かれている一枚の紙があった。
 なんだ、これ……と一瞬怪訝にしたが、よく考えてみれば答えは一つ。
そう、ラブレターである。今にも小躍りしそうな気持ちを抑えて、手に取る。
「あ、学。おはよう」
「はぅまっち?!」
 後ろから声をかけられて、思わず飛び上がる。その拍子に手紙はひらひらと舞い落ちた。
声をかけてきたのは、この学校で一番仲のいい友達である掛井義人である。
背がそこまで高くない俺より頭が一つ下の義人は、ただでさえ小さいのに、その体を地に向けて丸めていた。
「なにこれ?」
 そう言って手にしていたのは、先ほど落としてしまったラブレターである。
茅ヶ崎七海……」
 おそらく差出人の名前が裏に書いてあったのだろう。義人はひっくり返してそう呟ていた。
「お、おい! 見るなって!」
 義人を見ると固まっていた。……まるで、ロボットのようだ。いや、今時のロボットはよく動くし、そう考えるとロボットの方が今の義人より人間らしいのか?
「学!」
「は、はい!」
 義人が背に似合わない声を張り出す。思わず、声に驚き仰け反った。
「すごいよ、これ! あの茅ヶ崎七海さんだよ!」
「えっと、誰?」
「えぇ?! 知らないの?! この学校で一番可愛いと言われてる女の子だよ!」
 義人は詰め寄りながら、説明をする。……でも、やっぱり、頭に思い浮かばない。
「と言われてもな……」
「あの茅ヶ崎グループのお嬢様だよ! 成績だって優秀者の中に入ってるし、この間の文化祭なんかじゃ、バンドのボーカルだって――」
「ちょ、ちょい待て待て! 落ち着け、義人お前詳しすぎだって」
 義人はそう言うと少し指を顎につけて、考え込む。そして、
「ラブコメ主人公の親友だからね!」
「ラブコメ……主人公……?」
 頭の回りを疑問符が歩き回る。……この子はまったく何を言ってるのだろうか。
「だって、そうじゃない? あの茅ヶ崎さんにフラグも無しで告られるなんて、ラブコメ主人公が持つ主人公補正ないと無理だよ」
「全然分かんないけど、馬鹿にされてるのは伝わったな。よし歯食いしばれ」
 腕まくりをして、そこまで筋肉を義人に見せつける。義人はそれを見ると「ごめん、ごめん」と軽く謝った。
「大体、まだ封開けてないんだから。これで、もし、何かの頼み事……つまりはお願い事だったらどうするの?」
 義人はそれを聞くと「あぁ。それはあるかも」と苦笑した。その納得もなんだか、個人としては釈然としない。
「ほら、開けてみなよ」そう言って義人は手紙を渡してくる。受け取ると、丁寧に中身を見てみるが、
「……」
「どうしたの、学」
「いや、場所と時間しか書かれてないんだよな」
 好意を寄せている、と断言できる文言は一切書かれていなくて、場所と時間のみ。
これでは、ラブレターというより、業務連絡っぽい。
「これは確かに……怪しいね」
 盗み見したのか、義人も顎に手を添えて難しい顔をしていた。
「でもさ! 普通、お願い事に手紙なんて遠回りなことするか? しないよな?」
 希望的観測を聞くと、義人はさらに考え込んでいるのか、眉間にしわを寄せている。
「そうかなー。普段じゃ頼めないお願い事かもよ」
「頼めないお願い事?」
  ゴクリ、と生唾を飲む。義人はゆっくりと口を開いた。
「例えば、ご利益のある壺を買ってくれとか」
 壺……? いや、そんな、まさか。ありえない。
「例えば、絶対儲かる商売があるから、やらないかとか」
 商売……? いやいやいや! ないない。
「例えば、殴らせて欲しい、とか」
「それはない!」
 正確には「それもない」だった。どれも、茅ヶ崎の聞いたイメージとかけ離れ過ぎていて、会ったことすらない、俺にもありえないと断定できた。
義人は否定されると、ふざけたように笑い、お詫びを言う。
「ごめん、ごめん。でも、普段、教室とかでは言えないお願い事っていう可能性は普通にあるとは思うよ」
「……それもそうか」
 そうだ。茅ヶ崎と会ったことないのに、一方的に好意を寄せられるなんて、ありえない。
それこそ、ラブコメの神様にでも愛されている主人公でもなければ無理な芸当だ。
だから、きっとこの手紙もお願い事なんだろう。
「おーい。坂上! これ運ぶの手伝ってくれ」
 丁度、生徒玄関で出会ったジャージ姿の先生に声をかけられる。先生の両手には段ボールが積まれていて、ゆらゆらと今にも落としそうだ。
「ほら、学。お願い事だよ。行ってきな」
 義人は俺の背中を軽く押すと、自分は教室へ行くのか、背を向けて歩き出していた。
「また教室で。……先生手伝いますよ」
 駆け寄った俺は先生が抱えている段ボールを半分受け取る。先生の表情は暗かったが、荷物を受けとることで少柔らかくなったように感じた。
「すまんな、坂上」
「いえ、お……僕なら大丈夫ですから」
 先導する先生の後をついていく。どうやら、この荷物は教務員室の隣にある科目準備室の部品のようだ。段ボールにしっかりとマジックで書かれているし、間違いない。
「とは言っても、お前はいつも先生の仕事手伝ってくれるよな……。先生感動だ!」
 先生は荷物が減って楽になったのか、器用に片手で荷物を持ち、片手で目を覆い、嘘くさい鳴き真似をする。
「あはは……。僕は別にやりたいから、やってるだけですよ」
 そう、俺は自ら望んで人がやりたがらないことをする。……というよりかは、人に頼まれたことをする。それが所謂お願い事だ。誰からも、どんなお願い事も受けてきた。
今では、そのことは先生はおろか、クラスメイトにも周知の事実だからか、誰もやりたがらない、やらない仕事はほとんど俺に回ってくる。
だから、先生も今回、生徒玄関で俺を見つけた時は内心ラッキーとほくそ笑んだかもしれない。でも、別にいい。俺はあくまで自分のためにお願い事を受けているのだから。
「それならいいんだが……。頼んでる側が言うのもおかしいが、たまには断ってもいいんだぞ」
「あ、そうですか。では、ここで」
 持っていた荷物を降ろす振りをする。あくまで、振りだ。
「ちょ! ちょ! 今日は頼むよー」
「先生から断ってもいいと聞いたんですけど……」
 先生は「これはまいったな……」と苦笑する。それがおかしくて笑みが零れた。
「あ、さてはからかったな!」
 自分の思惑がバレ、先生に謝る。手伝っているのだから、これくらいは許されるはず。
「すいません。面白くて、つい……」
 やれやれ、と困ったように肩をすくめる。直後、先生は立ち止まる。見上げると、教務員室とプレートに架かれている。先生は重たそうに、荷物を下に下す。俺もつられて荷物を下に下した。下しても、まだ手には重みが残っているような感覚と跡があった。
「では、僕はこれで」
 背を向けて、一歩、二歩と歩く。すると、「おい、坂上」と止められる。さっきまで、居た場所に先生は変わらず、佇んでいて、
「学校楽しいか?」
 ただそれだけを尋ねた。
 それに面くらって、きょとんとしながらも、
「はい、楽しいですよ」

「坂上、ちょっとこのプリント集めてもらっていい?」
「坂上ー。昼休み、野球部の練習付き合ってくれ」
「坂上っくん! ゴミ捨て行ってきてくれない?」
「坂上――」
 以上、今日俺がお願いされた事柄の一部である。あくまでも一部である。
一部ということは全部では決してない。これ以上お願いされた事もある。
そんな日々を過ごし、今は放課後の教室。
外は少し夕闇で、大半の生徒ならもう既に下校している頃合いだ。それでも、俺は下校していなかった。クラスメイトからのお願いもあったけど、それ以上に今朝の茅ヶ崎の件があったから。……ちなみに、今日 茅ヶ崎を見かけたけど、それはもう可愛かった。
山の中に生えている薔薇という感じである。
「そろそろ時間のはずなんだけど」
 教室に立て掛けてある時計に視線を配ると、約束の時間を少し過ぎていた。
人を外見で言うのもおかしいが、茅ヶ崎さんが育ちが良さそうで約束を決して破りそうになく見えたので、なんだか意外だ。
 そう思った時、一人の少女が駆け込むように教室に入ってきた。
駆け込んで、すぐに膝を抑えて、肩で息をしているから顔までは見えないが。
それでも、頭が勝手に理解する。彼女こそが茅ヶ崎七海。件の彼女である。
「ま、待った?」
 顔を上げながら、髪を振り回しながら彼女は問いた。
「いや、そこまで待ってないから、ゆっくりしなよ」
「い、いえ! そんなことできません!」
 そう言って、茅ヶ崎さんは手早く髪の毛や息を整えた。……ふわっと汗の匂いがしたのは気のせいだろうか。多分、気のせいだ。気のせいということにしておく。
「……落ち着いた?」
「あ、ありがとう。大丈夫。うん、大丈夫」
 そう言う茅ヶ崎さんだが、彼女の顔は心なしか赤く見えた。いや、外が少し紅いせいだからか。
「え、えっと」
 頬をポリポリとかく。……少し気まずい。
「それで! 坂上……! 話がね、あるんだけど」
「お、おう」
 引っ込んでいた顔をぐいっと近づけさせる。どうやら、外が少し紅いせいで、茅ヶ崎の顔が赤く見えたのではなく、茅ヶ崎の顔が赤いようだ。
「私と……付き合ってくれないかな」

――以上で俺の回想が終わる。
「付き合ってって……まさか、その」
 指で茅ヶ崎と自身を交互に指差す。それに茅ヶ崎は、こくん、と首を縦に振る。
反応が嬉しくて、顔に血が集まるのが自分でも分かった。でも、一つだけ分からない点がある。それは、
「えっと、俺、壺とか興味ないよ?」
「壺……?」
 赤く染まっていた顔が一気に怪訝な表情へと変わる。どうやら違うようだ。
「絶対儲かる商売も、きょ、興味ないから!」
「儲かる商売……? さっきからどうしたの? どこか体調が悪い?」
 挙句の果てに茅ヶ崎に心配される始末……。義人の打率は二打席三振ではなく、二死球で終わった。
「大丈夫だ……。でも、俺ら全然関わり合いないのに、なんでまた俺なんかと」
 彼女の顔が怪訝から深刻な表情へと変わる。まるで、百面相だな。こういう風にコロコロ表情が変わるからこそ、人気なのかもしれない。そう思ったところで、茅ヶ崎は口を開いた。
「そうだよね。黙ってるのは良くないよね……」
 茅ヶ崎の視線は俺に向けられず、ただ地を見つめるように下だった。
「私、結構モテるだよね」
「………………はぁ?」
「呆れられた?!」
「いや、だって……」
 非モテである俺に対して、いきなりモテるって言われたらそうなるよな。全裸で県警に行くのと同義だろう。うん、そうだ。
「で、そのモテモテな茅ヶ崎さんが超絶非モテな僕に何か?」
「なんで、そんな棘のある言い方なの?!」
 コホン、と茅ヶ崎は一つ咳ばらいをし、周りをキョロキョロと確認する。
「それで、私と疑似的にでいいから付き合ってほしいの」
「つまりは、それって告白されて返答するのが面倒だから、俺を彼氏にしようと?」
 茅ヶ崎は少し迷った様子で答える。
「うーん、ちょっと違うけど。……ダメ?」
「…………」
 よく考える。茅ヶ崎はモテて困るから俺に疑似的彼氏になって欲しいと頼んできた。
それは本当だろう。今朝や今日の学校で茅ヶ崎の事を聞けば、かなり告白されているようだし。ちなみに今日の朝と昼休みにも告白されているようだった。
でも、もし、仮に、例えば、付き合うとなると俺は男子から羨望の眼差しを受けるどころか、殺意の眼差しを受けることになるだろう。
そう考えると背中が震える。
「別にそれ、俺である必要あるのか? 茅ヶ崎の彼氏になりたい奴なんてたくさんいるだろうし、それなら告ってきた奴とテキトーに付き合えば――」
「それはダメだよ!」
 途中まで言いかかった言葉を遮るように言われる。茅ヶ崎自身、自分の声量すらコントロールしていなかったみたいで、あまりの声の大きさに顔を赤らめていた。
「大声出しちゃってごめんね。……でも、ダメだよ。テキトーに、なんて」
 自分で言っといてあれなのだが、俺が悪い。そもそも、茅ヶ崎が誰かとテキトーに付き合える奴ならもう誰かと付き合っている。それなのに、俺は分かろうともせずに、考えもせずにそう答えてしまっていた。
「ごめん、そうだな。テキトーに付き合うなんて、いいわけないもんね」
 目の前にいる少女に言ったのか、それとも自身に言ったのか、分からなくなる。
「いいの。分かってくれたなら。……それにこんなこと頼むのだって、おかしいし。でも、頼める人は坂上しかいないの」
「俺だけ?」
「うん。坂上程優しくないと、きっとお願い受けてくれないと思って」
 それは素直に喜んでいいのだろうか。ただ良いように使われている気がしなくもない。
それでも、答えはもうすでに決まっていた。
「いいお。俺で良ければ、そのお願い受けるよ」
「いいの?! ほんとに?! 取り消せないよ?!」
 爛々とした表情で彼女は言う。なんだか、嬉しそうに見えた。
不思議とその笑顔にどこか既視感を抱く。遠いどこかで、もう思い出せない、思い出すことすらできない、そんな糸のような思い出だ。
「でも、坂上は好きな人いないの?」

 夢を見た。それは幼い頃の記憶。年齢は確か小学二年生であった。
その日は両親が機嫌が良かったのと休みなのが比例して、みんなで水族館に行くことになった。まだまだ幼かった俺は喜んだ。水族館自体にもそうだし、何より家族みんなで出かけられるのが痛い程嬉しかった。両親は家族より仕事の人だったし。
それで、いざ水族館に着くと、かなり混んでいた。母さんなんか、来るの後悔した、なんて呟く始末だ。父さんも父さんで、頻繁に携帯に目線を落としている。
その時、ふと俺の両手に柔らかい感触が伝わった。
家族の、両親の手だった。暖かくて、広くて、自分とは違う大人の手。
「離れたら面倒だからね」
 母さんはそう言ったけど、その顔にそのセリフはとても合っていなかった。
慈愛に満ちた表情で、売れく感じる。
 父さんも携帯を睨みつけ「こんな時に仕事の話するな」と携帯を乱暴気味に鞄へと閉まった。それに母さんも意外と思ったのか、
「あら、仕事大丈夫なの?」
「仕事の代わりなんて、いくらでもいるだろ。居なかったらそれは会社の責任だ」
「ふふ。それもそうね」母さんもそれに同意する。
 俺はここでやっと分かった。両親はいつでも家族を大切にしているのだと。
家族のために仕事をしている。目的と手段は決して逆になんて、なっていなかった。
それに嬉しくなってまた笑みを零す。
家族仲良く手を繋いで、入場した水族館は凄かった。受付から凝っていて、海色一色のロビーに小さな水槽にたくさんの魚たちが動き回っている。ずっと見ていると、目を回しそうだ。
やがて、両親は受付を終えたのか、水槽を眺めていた俺に近づくと、
「学。今日はイルカのショーがあるらしい。行くか?」
「うん!」
「それまでは、水族館を回ろうか」
 それにも元気に返事を返した俺は、両親共々と水族館を回り始めた。
水族館内部は、通路こそ広く作られているみたいだが、どうも入場者数が多いせいで狭く感じる。青色のライトが薄く照らされる中、歩いていると、一つの大きな水槽が出迎えてくれた。中にはエイやサメやらが泳いでいて、驚いたことをよく憶えている。
「うわぁ、すごいね」感嘆の声を思わず漏らす。
「あぁ。そうだな」父親も同意した。その目はどこか俺と同じような目をしている。
 その後も、水族館巡りは続き、昼過ぎになった頃。
俺達、家族はそろそろ昼食をとる、といった話になり、水族館横にあるフードコートを訪れていた。昼食は簡素なカレーである。特に変わったものではなく、普通のカレーだ。
それでも、不思議と美味しく感じたのは、両隣に居る両親の存在のおかげと気づくのに
時間はそんなにかからなかった。
「焦らないで食べなさい」
「うん。分かった」
 素直に頷き、急ぎ気味に食べていた手を止める。
「そんなに楽しみなのか?」父さんが尋ねる。
「うん、イルカ見たい!」
 そう言うと、父さんはいつも見せないような笑顔を見せ、頭を撫でてくれた。
父さんの手は大きくて、ごつごつしてて、俺と違った。
 食べ終わる頃には、イルカショーの時間となり、俺たちは揃って歩き出す。
父さんや母さんに付いて行くような形だったが、その時俺は気づいた。
前に居るはずの父さん、母さんが居なくなっていた。横を見渡してもいない。
いや、正確には人が多すぎて、分からない。それでも、声を精一杯張り上げて父さんと母さんを呼ぶ。……反応はなかった。苦しくて、苦しくて、泣きそうだった。
あの頃の俺は弱かったから。挫けそうだった。
まだ声変わりしていない甲高い声で泣き咽ていると、一人の少女が視界に入る。
「大丈夫?」少女は、首を傾げて尋ねる。
「……っく……ひっく。大丈夫」そして、俺は強がった。それは少女に面倒をかけたくない、という殊勝なものではなく、恥ずかしいのを隠すために。いわゆる照れ隠しだ。
「大丈夫そうには見えないけど」
「大丈夫ったら大丈夫」
「素直になっていいんだよ」
「僕は素直だい!」
「そうなんだ。あ、お母さんが見てるよ」
「え?!」慌てた様子で指差されれた背後を見ると、母さんは居なかった。
「ごめんね、見間違いだったね」見間違いも何も彼女は俺の母さんを知らない。彼女にからかわれたのだ。……そして、いつの間にか涙が引っ込んでいることに気が付く。
「ね、今一人ならあたしと一緒にイルカショー見ない?」
「え?!」
「あたしも見たいんだけど、一人だと退屈なんだ」
 困ったように笑顔を零す彼女にドキッと胸が鳴った。
「…………君も一人なの?」仲間かな、と思い尋ねる。
「まさか」
 そう答えた彼女は、先ほど見せた困ったような笑顔とは違って、眩しいくらいの笑顔だ。
「……むぅ」多分、その時の俺の顔はむすっとしていただろう。
「ほら、イジけてないで走る、走るぅ!」手を引かれて、俺は、俺達はは走り出した。
 どのくらい彼女に手を引かれ、走っただろうか。その当時、走るのが得意だった俺も息を切らしていたし、結構走っていたと思う。
息を切らして俺に対して、彼女の表情は涼しげだった。気持ちよさそうだ。
「ほら、もう着いたから」着いた時もやっぱり彼女は息を切らしていなかった。
 イルカショーは水族館の最上階、つまりは屋上で行われるため、外に出る必要がある。
外に出ると、あまりの眩しさに目を細めた。彼女の姿も逆光でよく見えない。
それでも、
「ほら、行こう?」手を差し出してくれた。
「うん」その手を掴み、引っ張られるのは俺だった。
 それからというもの、イルカショーを遠くから眺めた。始まる前に着けたが、もうすでに席は埋まっており、立ち見が精一杯だったのだ。それでも、やっぱり面白かった。
遠くからでも分かるイルカの大きさ、その大きさに似合わない俊敏な動き、どれも予想以上で、気が付いた時には両隣に両親が居ないことなんて、気にならなくなっていた。
「楽しかったね」彼女はそう言う。
 それがイルカショーが終わってからの第一声だった。
「うん」
 素っ気なく答えたつもりだったが、俺が言ったその言葉からは意図せず、熱がこもっていた。それに気が付いたのか、彼女は笑う。
「よかった。笑ってくれて」
「え……」
 自分でどういう表情をしているのか、分からなかったが、彼女のその一言で気が付いた。
俺は笑っていたのだ。いつの間にか、彼女に笑顔を引き出されていた。
「え、えっと、ありがとう。」申し訳程度の礼を述べた。
 彼女は最初から、俺を気遣い、必死に笑顔を引き出そうとしていたに違いない。
だから、せめてのお礼に俺は頭を下げた。そして、何か良い物がないか、とポッケを探る。……結果は特に何も入ってなかった。
「いいの。お礼なんて」
「だ、だめだよ。……働きにはそれ相応の報酬が必要って父さんも言ってたし……」
「ずいぶんと現実的なお父様なんだね」彼女は苦笑した。
 そして、何かを思いついたのか、彼女はニヤリと口角を上げた。
「今度はあなたが他人に優しくしてあげて」
「え……」きっと、その時の俺は驚きで目を丸くしていたと思う。
「私があなたにしたように、あなたが誰かに優しくするの。いい?」
「本当にそれでいいの?」
「うん、お願い」彼女は右手の小指を突き出した。
「分かった」それが何を示すのか、俺には分かった。俺も小指を突き出し、お互いの小指を、交差させると……指切りげんまんの完成だ。
「はい、これも」指を離し、彼女は一つのメダルを渡す。
「これは?」そのメダルをまじまじと見る。水族館記念メダルのようで、今日の日付が書かれていた。
「約束のメダル! あたしが二つ持ってても仕方ないから、特別にあげる!」
「ありがとう……」
「じゃ、また会えたら……会おうねっ」彼女はそう言って駆けて行った。
 脇目も振らず、ただ一直線に雑踏の中に消えて行った。
短く「あっ」と声を出し、追いかけようとした時、不意に肩を掴まれ、振り向くと、
「母さん! に父さん!」必死の形相の両親が居た。
 再開して、父さんは軽く俺に抱き着き、耳元で「どこ行ってたんだ」と声をかける。
「友達と遊んでいた」メダルを力一杯握りしめ、言った声は掠れていた。
 その時の感情を初恋と知ったのはまだ先の話だ。

「また、この夢か」
 ちゅんちゅんと小鳥が囀る朝だった。眠たい目を擦り、目覚まし時計に目をやると、まだ午前七時程だ。学校まで少し余裕ある。うーん、と体を伸ばし、のっそりと立ち上がった。ワイシャツ、制服を着込み、教科書がまったく入っていない鞄を引っ提げ、リビングへと移動する。リビングには誰もいない。もう見慣れた光景であった。
冷蔵庫からテキトーに卵を掴み、それを調理していく。
そうして、できた朝食を口に放り込み、牛乳と共に飲み下す。いつもらしい朝だった。
両親は昔から仕事がかなり忙しかったが、俺が高校に入ってからは加速するように、さらに忙しくなった。個人的にはいつまでも、親、親と言える歳でもないので別に構わないが、それでも体には気を付けてほしい。
「そろそろ時間だな」
 時刻は七時半を廻っていた。少し急ぎ気味に食べ終わった皿を流しに置き、鞄を背負う。
その時、ピンポーンと家にこだまする。この時間、家に来る人物に一人だけ心当たりがあった。
「来たか」
 てくてくと玄関に駆け寄り、扉を開ける。そこに立っていたのは、ここ一週間毎日登下校を共にしている茅ヶ崎七海だった。
そう、告白を受けてから毎日家に来てもらっている。茅ヶ崎曰く「彼女は毎日、彼氏の家に寄ってから学校に行くものなの」と豪語したことから、毎朝はそうしていた。
「おはよ」
 煌びやかな前髪をふわっと手でかきわけ、ニコッと笑いかけている茅ヶ崎
「ん、おはよう」
「もう行ける?」
「あぁ。大丈夫、行くよ」
 鞄を背負っているので、そのまま歩き出す。茅ヶ崎も何も言わず、付いて来た。
「? なんかあった?」
 茅ヶ崎がきょとんとした表情で問いかけた。
「なんで?」
 それに俺は聞き返す。すると、茅ヶ崎は考え込むように人差し指を顎に添えた。
「彼女の勘?」
「なんだそれ」
「なんか、いつもと違うかなって」
「いつもと同じだよ」
 そう、いつもと同じ。正確には一週間前からずっと茅ヶ崎に対して素っ気ない態度だろう。その原因は茅ヶ崎と付き合ってから毎朝見る夢のせいだ。
それは思い出深い初恋であり、一生叶うことのない恋でもある。
俺はまだ、きっと、多分だけど、引きずっているのかもしれない。
「彼女にはそういうの分かるんだよねー」
「って言っても正式じゃないけどな。おまけに付き合って一週間。他人も他人だな」
 冗談めかしてそう言うと、茅ヶ崎も笑って返す。
「あー! また、そういうこと言うー!」
「はっはは」
 茅ヶ崎は唇を尖らせると、何かを思い出したのか、鞄からごそごそと一枚の紙を俺に差し出す。どうやら俺に見せるために、わざわざ持ってきたようで、所々折れているが、読めない程ではない。
「水族館?」
 紙上部にでかでかと赤い文字と枠で括られている文字を無意識の内に読み上げる。
「そう! この間、友達に教えてもらったの! 凄くない?!」
「何が凄いかは、分からないけどこれがどうした?」
 急に茅ヶ崎はまたしても、唇を尖らせた。
「えっと……」
「…………」
茅ヶ崎……さん?」
「………………ばーか」
 別に言わせたいわけでもない。ましてや、俺の何気ない一言でここまで黙り込むとは思っていないかった。それだけである。
「あー、水族館行きたいなー! めちゃくちゃ行きたいなー! 誰か一緒に行ってくれないかなー!」
 それを聞いた茅ヶ崎は目を爛々と輝かせた。まるで、俺の発言を待っていたと言わんばかりの勢いである。
「坂上は仕方ないなー。ほんっとに仕方ないなー。しょうがない。ここは彼女でもあるこの私、茅ヶ崎七海が一緒に行ってあげるよ。だから、泣かないで。ほら」
 仰々しい言葉を発する茅ヶ崎を見て一つだけ思った。
こいつ、意外とめんどくさいな。
「む? なんか失礼なこと考えてない?」
 無駄に鋭いのもそうだ。
「学。ご飯どう?」
 義人から話しかけられたのは、昼休みのことだった。
いつものように弁当箱をチラつかせて今は居ない隣の席に座ろうとする。
軽く頭を振ってこたえた。
「今日は無理だ、義人」
 その言葉に義人は眉を吊り上げてみせた。
「今日も、じゃなくて?」
「まぁ、そういう捉え方や言い方もあるにはあるな……」
「……茅ヶ崎さんのところかい?」
「うん、まぁ。そうかも……いや、そうなんだが」
 溜息を深くついた義人。その姿は、何か俺に言いたいようだ。
「学。君はホントいいね」
「いや、何がだよ」
 義人は、そっと手を俺の肩に置く。その手には若干の力が込められていた。
「ラブコメの神様も愛しすぎて、そろそろ試練をあげてもいいんじゃないかな?」
「いや、試練って……。そもそも義人はそこまで羨ましく思ってもないだろ」
 義人は一瞬きょとんとさせながらも、次には笑顔を浮かべていた。
茅ヶ崎と付き合える人間は確かに幸福でああろう。しかし、他の男からは恨まれる。それも相当に。故に必ずしも羨まれるというわけでもない。
特に義人なんて、恋愛に興味ないだろう。
「確かにねー。僕恋愛あんまり興味ないし。今はゲームやってる方が楽しいし」
「それもそれで、どうなんだ?」
 一般男子高校生が恋愛に興味ないって少しまずくないか……?
異性にドキドキしたり、付き合いたいと思うのが普通じゃないのか……?
でも、そう考えると俺も偽物の恋人を演じてる時点でなんか違うとなってきたので、考えることをやめてしまった。
「それにほら、最近だと新しく発売したバーチャルリアリティーゲーム? なんかで、疑似的に恋愛体験できるしね」
「それって発売してたっけ?」
 まだ発売は当分先とどこかのニュースで見てがっかりした気がする。
ツッコまれた義人も、どこか焦ったように訂正をした。
「あっはは。僕の知り合いに開発者が居てベータテストみたいなことしてるだけだよ」
「なんて、羨ましい」
 恋愛ゲームには興味ないが、シューティングやアクションなんかをバーチャルリアリティーゲームで体験出来たら、かなり世界観に入り込めるし、面白そうだ。
「じゃ、今日来る? 家にあるんだけど」
「いや、いい。今日は茅ヶ崎と帰らなきゃイケないし」
「また、茅ヶ崎さんか。はいはい、お邪魔でしたね。あ、ほら、あそこに茅ヶ崎さんいるよ。行ってきたら?」
 義人が指さした方向に茅ヶ崎は立っていた。ただ立っているだけなのに、どこか気品みたいなものが俺には感じられた。
「悪いな。義人。また」
「このリア充め」
 そう蔑んだ義人の目はどこか優しさに包まれているようだった。
その目に見送られながらも、俺は茅ヶ崎の元に駆け寄る。
「ごめん、話してた」
 手を折り、謝る。その謝りに不服なのか、茅ヶ崎はぷいっと視線を逸らす。
「彼女を置いて、お友達とお話ですか、そーですか」
 どうやら不服だったのは義人と話していたことについて、らしい。
「いや、謝るから。ごめんって」
「べ、別に、お、怒ってないしー? なんなら、そのまま話してもいいしー?」
 内心めんどくさい、とボヤきながらも俺は彼女の手をとると、走り出す。
茅ヶ崎は突然のことで対処できなかったのか、顔を赤くし、黙って俺に引かれる。
 そして、走りだすこと数分。
少し息切れを切らしてまで訪れた場所は屋上。
ここ一週間は二人でこの場所に来ては昼食をとっている。事の発想は茅ヶ崎で彼女たる者、彼氏の弁当を作り、二人屋上で昼を食べるものらしい。
近くのフェンスに背を預けるように座り、茅ヶ崎から弁当を受け取る。
「いつも悪いな」
「それはいいけど……走ったから、もしかして形崩れてるかも」
「それも悪かった」
 そう言いつつ、弁当の蓋を開ける。中にはとてもお嬢様の家の昼食とは思えない庶民派の弁当が待っていた。卵焼き、唐揚げ、ナポリタン、サラダ。どれも美味しそうにできている。いや、多分どれも美味しい。なぜなら、もう何日も食べてきているのだ、この弁当を。そのどれもが美味しかったし、茅ヶ崎は間違いなく料理が得意だと思う。
「でも、なんであんなこと急にしたの?」
「嫌だったか?」
「いや、そうじゃないけど……いや、でも、嬉しかったていう……いや」
 あたふた慌ててる茅ヶ崎を横目に見ながら、唐揚げを一つ頬張る。美味しい。
「なんどなく。走ってここまで来たかったから」
 あの夢に出てきた自分のように走りたかったのかもしれない。でも、隣に居る子は違う。
「なんか、はぐらかされた気がする」
 んー、と隣で小さく丸まり唸っていた。やがて、それにも飽きたのかポッケから一枚の紙を俺にも見えるように出す。
「今朝のか?」短く尋ねると、肯定の言葉が返ってくる。
「うん。今週末行かない?」
「へ……?」
 あまりの急さに、思わず卵焼きを落とし、怒られたのは余談である。

 男と女はまったく別の生物だと思う。
それは物事に置ける価値観や考えもそうだし、特に如実に違うと感じるのは恋愛。
男が俗に言うセーブ型なら、女は新規データ作成だ。
男は振った、振られた相手を忘れないし、憶えてる。それに比べ、女は振った、振られた男を比較的すぐに記憶から消去する。どっちが正しいか、なんてのはなく、何が言いたいかと言うと、男と女はまったく別の生物ということである。
 昼前にもなると、駅前は込み始めてきた。スーツ姿のサラリーマンに少し上の大学生ぽい男女の姿、主婦、色々とこの駅前に集まっている。
その中でも、まだ茅ヶ崎七海という俺の恋人はまだ集まっていなかった。
「待ち合わせから、五分過ぎてる」
 彼氏になってくれた日も呼びだした割に遅れていたし、もしかしたら、茅ヶ崎は時間にルーズな人間なのかもしれない。きっと、そうだろう。そうに違いない。
 結局、茅ヶ崎が待ち合わせ場所に来たのはさらに五分経過した頃だ。
「ごめん、待った?!」
 寛容で寛大な俺は嫌な顔を一つ見せず、
「まぁ、十分待った」正直に言った。
「そこは待ってないって言うべきところでしょー!」
「そんな理不尽な」
 素直に言えない世界なんて間違っている! 静かにそう思うことにした。
「まぁ、いいや。早速だけど、行こうか」
 俺が大して気にしてないのを分かったのか、茅ヶ崎はそれ以上俺に何も言わなかった。
ただ小さな声で「ありがとう」と呟いたのは、俺に聞こえていた。
 今回、来ていた比較的大きな駅前は丁度、俺と茅ヶ崎の中間地点辺りにある駅だから、待ち合わせ場所にすることにした。もちろん、電車も使うが。
駅前から駅に移動し、切符を買おうと券売機を操作すると、
茅ヶ崎は券売機使えんの?」
 俺の言葉に苛立ちを憶えたのか、恥ずかしさを憶えたのか、茅ヶ崎は顔を赤くする。
「買えるから! なんなら、私電子マネー派だし!」
「あ、そうなんだ」お嬢様と聞いていたのに、やはり庶民派だ。
 切符を買った俺と電子マネーを使う茅ヶ崎は水族館最寄り駅までの電車に乗る。
今日は土曜日なのに、車両はガラガラだった。土曜日だから、空いているのかもしれないとも思ったが、この先にビジネス街はないから、それは無さそうだ。
「坂上は水族館行ったことあるの?」
 隣に座っている茅ヶ崎が視線は真っ直ぐのまま尋ねる。
「一回だけある。家族と」
「そっか。私もあるんだ。一人で」
 一人で、っていう言葉が意外で思わず「意外だな」とすぐさま返してしまう。
「ふふ、坂上は私を変な風に見過ぎ」
「変な風?」
「うん、お嬢様とかって思ってるんでしょう?」
「まぁ……」 実際そうなんだろう。茅ヶ崎はお嬢様だ。
 俺の返答がおかしかったのか、茅ヶ崎は閉じた手を、口の前まで持っていて笑う。
「ぜんっぜんなのに。私は普通の娘だよ」
 髪が風で揺れる。茅ヶ崎は困ったように「あ」と短く発声し、髪を抑えつける。
似ても似てつかないことにどこか胸がぎゅっと締めつかれた。
あの子は茅ヶ崎じゃないし、茅ヶ崎もあの子じゃない。
「……そうなのかな」
「うん。そうだよ」
「あ、ほら! 見て!」無邪気な声で茅ヶ崎は電車の窓のその先を指差し言う。
 指差した方角には、見覚えのある建物が立っていた。懐かしく思える。
 そのまま数分、電車は走ると、俺らは水族館最寄り駅に着いた。
ここから水族館までは電車の構内を利用しても行ける。そのためか、駅も水族館の特別仕様風になっていた。昔はこんな風だったろうか?
「可愛いー!」構内に売られている水族館のぬいぐるみを抱きかかえていた。
「水族館の中でそういうの買おうな」
 抱きかかえていたぬいぐるみを元の売り場に戻し、水族館に続く道を歩いた。
水族館のロビーに着くと、そこは何も変わっていなかった。
喜ぶべきか、悲しむべきか。よく分からないが。あの時、両親が受付をしたように、今度は俺がした。……ただチケットを買うだけだから、映画と大して変わらなかった。
「ねー。どこから行く? イルカ? サメ? ラッコ? ねぇねぇ、どこ行く? どこ行くのー? 聞いてる? 聞いてますかー? 坂上っくーん!」
 連続で発せられるマシンガントークに俺は着いて行けず、後ずさりしてしまう。
「まずは順に見てけばいいだろ、順に」
「それもそうだね!」茅ヶ崎は頷き、鼻歌を口ずさむ。
 ロビーから近い順に俺たちは見ることを決め、歩き出した。
まずは水辺の小動物というコーナーが見え、ビーバーやカワウソなどの小動物が各々退屈そうに暮らしていた。
「うあー、すっっごいね。坂上」
 しかし、そんなカワウソたちの無気力な姿と対比になって、茅ヶ崎は活気溢れていた。
「まぁ、確かにすごいかも」
 テレビなどでは決して見れることのできないリアルな生態に俺もどこかハマって見てしまう。案外、カワウソは可愛いんだなと気づいた。
「あ、ほら! あれ! なに! あれ!」
 カワウソに目を奪われていた俺の肩を叩き、必要に「あれ」と連呼し、見せたがっていたものはどうやら何かの体験スペースらしい。
小さい子供が簡単なおもちゃに、ぬいぐるみで遊べる施設に休憩するための机。
そして、中央に降ろされてるのが、水槽。どうやら、目の前にある椅子に座って、水槽に足を突っ込むらしい。
「やるのか?」そう軽く聞くと、茅ヶ崎の肩が震えだす
「やっる!」
 今は丁度、椅子が二席空いているので俺も座ろうと腰をかける。
茅ヶ崎は興奮気味に背を預けて、ゆっくり、ゆっくりと慎重に足を水槽へ入れていく。
水面に、触れだした瞬間、小さな魚たちが茅ヶ崎の足へ向かいだす。
 俗に言われるドクターフィッシュと言われる魚である。人の皮膚にある古い角質を安全に食べてくれるので、美容、健康に人気がある体験らしい。
「あ……っ……ん……うっ……だめって……そ……なっ……!」
 熱の籠った吐息に、軽く濡れている瞳。……俺はすっと立ち上がる。
ドクターフィッシュはやらないのか? といった表情で茅ヶ崎は不思議そうに俺は見るが、その表情はトロけていて、どうにかなりそうだ。
「ちょっとトイレ行ってくる」
 茅ヶ崎のあの声に、あの表情は俺にとって、どうやら薬にも毒にもなしろうだから、速やかに戦略的撤退を進言した。

 俺が戻ってくると、茅ヶ崎は開いていた机に座りながら、何やら見ていた。
そっと見ようと近づこうとしたところで、気付かれる。任務は失敗だ。
「来てるなら言ってよ」
 文面にすると、キツそうなのに彼女が言うと優しく聞こえるのは不思議である。
「なんか、声掛け辛かった。真剣だったし」
「そ、そう? 別に普通だよ」
「それで、何してたんだ?」
 そう言うと、嫌そうに考え込む茅ヶ崎。やがて、名案でも思い付いたのか、掌をポンと押す。
「秘密だよ」名案でも何でもなかったみたいだ。
「いいじゃん。彼氏だし、教えてよ」こことぞばかりに、彼氏を主張。
「ここぞとばかりに、そういうこと言わないのっ!」
 読まれていた、撃沈だ。「でも」と彼女は続ける。頬に赤みを帯びらせて。
「今度あげるから。憶えててね」
「お、おう」
 あげる、という言葉に引っかかりながらも了承した。楽しみが増えた気分である。
 体験スペースから抜け出した俺たちは日本海の生物を見て、ペンギンの散歩も堪能した。
売店ではクレープが売っていたから、お互いに買い、交換し合った。
交換するのはちょっと恥ずかしかったし、躊躇いもあったけど、心が温かくなるのを憶えた。
「次どうする?」クレープのゴミを捨てて、俺は尋ねた。
「そろそろ、イルカショーがあるみたいだね、最後の」
 その言葉に俺は大げさに肩を震わせてしまう。だって、それは思い出深い、俺の……たった一度の恋の思い出だから。
「行こう?」
 茅ヶ崎はにこやかに手を差し伸べる。あの子もこんな風に俺に手を差し伸べたのだろうか。それだけが気になった。
「いいよ、行こう」
 イルカショーは昔と変わらず、水族館の屋上で行われているようだ。
来た事ある、懐かしい道を歩く。……昔は、手を引かれ走っていたことを思い出しながら。今は、もうそんなことなかっ――
「ちょ?! 茅ヶ崎?!」
 急に手を引っ張られ、走らされる。茅ヶ崎が俺を引っ張っているみたいだ。
「ショーが始まっちゃうよ! ほら、はやく! はやく!」
「ったく」
 小言を挟みつつも、俺の足はしっかりとコンクリートの冷たい地面を蹴っていた。
昔、走った道を今も走っている。隣に居る人は違っても、俺は走っている。
 走って数分も経てば、屋上の光を浴びていた。しかし、走ったせいか若干熱く感じる。
息も少し途切れているから、息苦しい。
隣の茅ヶ崎はというと……なんとも涼し気に風を感じていた。
 イルカショーは奥にステージがと水槽があり、その手前に観客席がある。
五分前に着いたが、右から左まで一席も空いておらず、消去法的に俺らは一番後ろの立ち見から見ることになった。……それでも、茅ヶ崎は今か、今か、とイルカを待っている。
「ごめん、もう少し早くくるべきだったな」そう言うと、茅ヶ崎は頭を振り、髪を揺らす。
「ううん、いいの。ここからがいいの」
 慈愛に満ちた笑顔であって、哀愁に満ちた笑顔。いろんな感情が渦巻いてるような、けれど、彼女は愛しそうに視線を前に戻した。そこで、俺は思った。
もし、あの子が茅ヶ崎がなら、どれだけ良かったのか。
でも、そんなことは絶対ない。なぜなら、小さい頃、それもほんの数十分会った彼女が茅ヶ崎なんていう確率はどう考えても高くない。限りなくゼロに近い。
そんな可能性に期待してしまう程、俺にとって過去の彼女の存在は小さくなってしまったのか? それも違う。
――茅ヶ崎が俺の中で大きくなっているだけだ。
「うぁわあああああああっっ!」
 観客が一気に沸き立つ。どうやら、とっくにイルカショーは始まっていたみたいだ。
視線を向けると、自身の何倍も大きく飛んで豪快に潜っている。そのせいで、最前列付近に座っている観客なんかは、全身びしょ濡れのことだろう。
そこで、気付く。今さっきまで目を輝かせていた茅ヶ崎の姿がないことに。
茅ヶ崎はどこだ……?」一気に胸がざわついた。
 この焦燥感に憶えがあった。親が急に目の前から居なくなったあの時と同じ。
寂しくて、苦しくて、泣きたかった。そんな幼い自分の感情。
しかし、あの時より俺は成長したのだ。今なら、あの彼女に助けてもらう事なく、一人でやりきれるはず。それだけの強さは得たはず。
……なのに、立ちすくむのはなぜなのだろう……?
茅ヶ崎を探さなきゃ、探さなきゃダメだ」
 自分に言い聞かせて、自身の足に絡みついた鎖を引き離す。
とりあえず、まだ行われているイルカショーの観客席を見渡すが、茅ヶ崎らしき人物はおらず、さらに焦る。立ち見席を走って、探すがこれも見つからなかった。
そして、携帯で連絡をとればいいのか、と気づいたが、
「連絡先聞いてなかった……」聞いとけばよかった、と激しく後悔する。
 もしかしたら、元の場所へ戻っているのかも……と思い、元の場所へ戻れば、そこには額に汗を流し拭う、茅ヶ崎の姿があった。
あまりに安心したせいか、見つけた瞬間今まで無理矢理動かしてきた足が崩れ落ちる。
それのせいで、茅ヶ崎はこちらに気が付いたのか、急いで駆け寄ってきた。
「どこ行ってたの!」心配するように、怒鳴るように、彼女は声を上げた。
「それはこっちのセリフだ! 馬鹿! どこ行ってたんだよ! お前を探して、それで、それで……」
「探してくれてたの?」
「当たり前だろ!」彼女は困ったような顔を浮かべた。
「ごめん。ちょっと電話してて、離れてたんだ。ちょっとの間だから、大丈夫って思ってて……戻ったら坂上いなしで、その」
「もういいから」
 それは突き放すような言葉ではなく、迎え入れる言葉。
「ありがとうございました――――!」
 飼育員のマイクを通した声がステージに、観客席に響く。次いで、アナウンスで静かに移動するように注意を促される。それらの声を挟んだせいで、俺たちの間には静寂が訪れていた。
「……帰ろっか」ポツンと呟かれた言葉に俺は首を縦に振る。
 そして、歩き出した。帰るために。
道中ロビーに出ると、本日最後のイルカショーが終わったからか、たくさんの人が我先に帰ろうと溢れていた。想わず「うわ」と小さな声が出る。
「人多いね」
「そうだな。イルカショー目当てだったのかもな」
 彼女はそれに答えようとせず、
「……ねぇ」喧騒に呑まれそうな、か弱い声を絞り出す。
「ん」俺もそれに短く返す。
「手?がない? 離れると嫌でしょ?」
 そう言った彼女の顔を見ることはできなかった。恥ずかしくて。
 答えるのも恥ずかしい俺は黙って、茅ヶ崎の隣に寄り添い、手を繋いだ。
周りから見れば、カップルに見えるのかな、と思うと、嬉しく思う半面、過去の事を思い出し苦しくなる。
水族館を後にし、行きで乗ってきた駅に向かう。正にその瞬間だった。
水族館を出て、数分、駐車場を抜け、駅前の信号のところで今まで固く繋がれていた手が、一瞬にして離れ離れになった。……茅ヶ崎から離して――
「七海何している?」向こう側に停められていた車から一人の男がこちらに近づいて来た。
 七海、と言った辺り茅ヶ崎と親しい人間なのか……?
「お兄様……」浮かない顔をしてそう述べる。
 お兄様って……茅ヶ崎の兄?! よく顔を見ると、確かに面影がある。
意思が強そうな瞳に、掘りの深い顔。極めつけは、背がかなり高い。
「どうして、ここにいらしたのですか?!」
「どうしても何も。お前がここに居ると言っただろう。だから、迎えに来たのだ」
「だから、迎えなんて――」必死に言葉を選びながら、茅ヶ崎は訴えかけていた。
 しかし、それらは一切茅ヶ崎兄には届いていなかった。
「ん? そこの男はなんだ?」
 妹の隣にいる男――俺に気が付いたのか問われる。そして、値踏みをするように、じろっとした視線を這わされた。
「この方は……その「俺は茅ヶ崎の……七海の彼氏です」」
 茅ヶ崎の声に重ねるように、伝わるように、関係性をハッキりと告げた。
茅ヶ崎は目を大きく見開かせ、驚いていた。正直、俺自身も驚いている。なぜ、ああ言ったのか分からないが、少なくとも言わないという選択はなかった。
「ほお」茅ヶ崎兄の額に青筋が浮かぶ。そして、茅ヶ崎を見据える。
「お兄様は、これは」
「七海、お前も分かっているはずだ。お前には見合いがあり、結婚すべき相手も居るということを。それを、こんな」今度は俺を見て、軽く鼻を鳴らす。
「お、お兄様! 坂上くんは立派な方です!」
「黙れ! もう顔合わせの日付だって決まっているのに、お前という奴は!」
 それを聞いて茅ヶ崎は黙り込む。……今は俺のこと言われていないはずなのに、俺自身にもプレッシャーが伝わるほど凄まじい気迫だ。
「親と決めた相手なんて今時、そんなのおかしいだろ」
 俺は俺の考えをハッキりと臆面せず伝える。……茅ヶ崎兄はこちらを向き、
「貴様ら庶民と我ら茅ヶ崎の人間を一緒くたにするな。我らは、引いてはこの日本を支えるのだから」
「それでも! 俺は茅ヶ崎と付き合ってる!」
「なら、幾ら欲しい?」
「は?」幾らって何のは無しだよ、と思ったところで茅ヶ崎兄は答えを教えるように語る。
「金だ。金。手切れ金でも、臨時ボーナスでもお小遣いでも、どんあ捉え方でもいい。とりあえず、金をあげるから七海とは関わるな」
 絶句した。金って、そんなもので人の気持ちを買えるとでも思っているのだろうか。
「金なんていらねぇ! 俺はただ……!」
 ただ……なんだ? 茅ヶ崎に傍に居てほしい、それを言おうと思っても口からは何も出てこない。ただ、酸素を取り込むようにパクパクとするだけだ。
過去の彼女が一瞬頭を過ったから、その先を言えなかった、それは分かっている。
 でも、言わなくちゃイケないだろ! なのに、どうしても言えない。
「ふん。行くぞ、七海」いつまでも俺に構っていられるか、という感じで去って行く。
もちろん、茅ヶ崎を連れて。固く結んだ手は今は離れ、掴もうにも届かない。
「ま、待ってください! 最後に! ほんの少しでいいですから」
「ダメだ。あんな奴に関わると落ちぶれるぞ」
「それでも、あの方は今日まで私によくしてくれました! 茅ヶ崎の者なら、礼儀と義理は尽くすべきでしょう!」最後まで食い下がることなく言い切った茅ヶ崎
「ふん、好きにしろ」そう言って、一人車まで戻って行った茅ヶ崎兄。
「坂上くん……きっと聞きたい事たくさんあると思う。……でもね」
茅ヶ崎……」胸の中に何とも形容しがたい感情が広がる。大地を曇らす雲のように。
「私、楽しかった。ありがとう、これからずっとこの思い出だけは忘れない。
 だから、今日で恋人はお終い。別れよう、私たち」いつもの彼女の笑顔だった。
「まっ――」てくれ。また、何も言えない。
 茅ヶ崎はそれだけ伝えると、俺の視界から消えるように車に乗り込んでいった。
俺はただ、その車を見えなくなるまで……いや、見えなくっても見続けていた。
嘘だ、と言わんばかりに俺は胸のある物を強く握った。

「学。また寝てるのかい」
 いつも――茅ヶ崎と付き合っていなかった以前の日常に戻って。もう一週間が経過していた。俺たちが別れたという話は、茅ヶ崎兄と会ってから翌日でもう広まっていた。
学校がミーハーなのがよく分かる。俺……はというと、あれから謎の脱力感に襲われていた。元々が偽の恋人だったんだ、気にしなきゃいい。次に進めばいい。そう思うだけで簡単に立ち直れる――そう思ってたけど、どうも無理みたい。
「坂上さんと別れてからずっとそれだよね。ちょっとは友人のことも気にしてほしいよ」
 断りもせず、隣の席に座ると、義人は肩をオーバーに揺らした。
「別に茅ヶ崎は関係ない」
「じゃ、なんで、そんなゲンナリしてるのさ?」間髪せず詰め寄るように問う。
「……ぐっ! うっさい! 繊細でシルクでガラスなんだから」
「でも、それじゃおかしいよ」義人はケラケラと笑うように告げる。

「それじゃ、義人が振られたみたいじゃないか」

 振られたみたい? いや、俺は間違いなく降られた。それが茅ヶ崎兄のせいでもあって、諦めを、やめることを、選んだのは茅ヶ崎の意思だ。
だから、俺はこんなにもやるせないのだ。大切になりかけていたのは俺だけ。
失いたくない、と思ったのも俺だけ。
「どういうことだ? 俺が振られたんだ。俺が、あの時っっ!!」
 義人だけじゃない、クラスにいる人たちが一斉に俺の方へ振り返る。
「あの時確かに振られた。全てが……なくなったんだ。だから、それは、そんなのは!」
 ぎゅっと胸にある物を掴む。血が集まるのが体内で分かった。
「場所変えよう、学」静かにそう言った義人の顔は今でも見たことない程怖かった。
 義人に連れられて、来たのは屋上だった。つい、この間まで一緒に弁当を食べたのが懐かしい。義人はフェンスを掴み、ずっと奥の空を見ているようだった。
「僕、分かったんだ」
「何が?」そう答えると、彼は振り返る。そして、嗤った。
「君は茅ヶ崎さんのこと好きだよ」銃身を突き付けられたように固まった。
「……」また、何も言えない。言葉が出てきてくれない。
「なんで、学がそこまでそれを認めようと思わないのはそれのせいだよね」
 俺を指差す。おや、正確にはワイシャツ下に隠れている物。
 俺はそれを見せるように、ボタンを一つ二つ開ける。そうして、出てきたのは、
「そのネックレス。一度だけ、僕に教えてくれたよね。昔、小さい頃好きだった人にもらったって」
 首を縦に振り肯定した。義人はさらに、こうも付け加える。
「その人の顔も名前も何も分からないけど、好きだった。君はそう言った。だから、それに拘りすぎて、茅ヶ崎さんに対しての言葉が出ないんだ」
「そうかもしれない」
「だったら、分かってるだろ。もうそんなのに意味がないってことくらい」
「だったら、忘れろって言うのか。無かったことにしろって言うのか」
 右も左も分からない、俺に手を差し伸べた人の事を忘れろと? そう伝える。
「そうだよ。好きなだった人を、恩人だった人を忘れるべきだと言っているんだ」
「そんなのおかしいだろ!」恩も返せず、何も出来ず、忘れろなんて。
「だったら、茅ヶ崎さんはどうすんだよ! 彼女は学が何も言われないように、自分を悪にして学に振られた、と言って回っているんだ。それでいいのかよ。なぁ、学」
 俺を助けるため? 守るため?
「ここで頑張らなきゃラブコメの主人公じゃねーだろ! おい、坂上学!」
 義人が一気に詰め寄ってきて、頬を思いっきり殴られる。痛かった。
頬はピリピリと痙攣して、心も痺れた。
「今と過去! どっちが大切な事くらい分かるだろ! 過去を羨み、戻りたいと願ってもいい! でも、今は捨てるな! 過去に生きてるんじゃない! 今、ここで話してるのは誰だ! 今、ここで泣きそうになってるのは誰だ! 茅ヶ崎さんを好きなのは誰だ!」
 今を捨てるな……確かにそうだ。このままだったら、俺は今を捨てて過去に生きていた。
過去を願っても、彼女に会えるわけでもないのに、拘っていた。それは今日で終わりだ。
「俺行くよ」義人はさっきと違う優しい笑顔を浮かべ、
「ラブコメ主人公の親友らしい仕事はしたよ。大丈夫、主人公は必ずヒロインと結ばれるのが定石だから」

 義人から教えられた茅ヶ崎の住所へ着くと、そこには大きな庭付きの豪邸……というよりも洋館が広がっていた。なぜ、義人がその情報を持っているのかというと、本人曰くラブコメ主人公の親友だから、らしい。謎だ。でも、今は何でもいい。
茅ヶ崎と会うのが大事だ。茅ヶ崎の家の門横にあるインターホンを押そうとすると、
「坂上学様ですか?」不意に背後から話しかけられる。
 執事服を着たご老人だ。目にはシワがあるが、その眼光は鋭い。
「はい。そうですけど」でも、ここまで来て引くわけにはいかない。
「文彦坊ちゃんがお待ちです。こちらへ」
 文彦という名前に疑問が生まれたが、一先ずは付いてこい……ということか。
 そのまま門をくぐると、そこには立派な庭……森と形容したほうが正しいような自然が広がっていた。これが茅ヶ崎家なのか、と今更驚く。
その自然の広さに似合う程のとてつもなく大きい洋館に入る。
意外とアナログなのか、これまで警備らしい警備が何もなかった。指紋認証とか赤外線とかありそうな雰囲気なのだが。
やがて、一つの部屋に通される。その部屋には家具は何も無く、あるのは大理石を埋め尽くしている絨毯。靴越しでも柔らかさが感じられる。
 その部屋の中央に仁王立ちして立っているのは茅ヶ崎兄。
「……セバス下がれ」瞳を閉じて、茅ヶ崎はそう唱えた。
「はっ」一瞬にして、セバスと呼ばれた執事は居なくなる。なんて、ご老人だ。
「して、坂上とやら、なぜ来た?」
「あなただって、俺が来ることくらい分かってたんだろ?」
「分かっていたわけではない。展開を予想したに過ぎん」
「なら、俺が言いたい事分かるよな?」
「七海には会わせん」そこでやっと俺の目を貫くように見る。
「なら、仕方ない。……本位じゃないけど」
 喧嘩なんてやったことない。殴り合ったことも。それでも、俺は会いたい!
だから、この人を倒してでも会いに行く! それが間違ってても!
「ほお。単純明快、実に結構。負けたら、大人しく帰るんだな」構える。
 一瞬の静寂を破ったのは、俺。走ることが別段得意でもない。それでも、自分自身の足で間合いを詰める。詰めて、腕に力を入れて、振りぬく。
茅ヶ崎兄は、分かっていたのか、避けようとせず、拳を掌で捕まえる。
「ぬるい……ぬるすぎるぞっ!」掌に力を入れられ、俺の拳が潰されそうになる。
 痛い、痛い、痛い! けど、まだ、やれ、る!
 そう思った瞬間、腹に衝撃が。
――――――――。
殴られた衝撃で、かなりの距離を吹っ飛ばされ、おまけに一瞬息もできなかった。
口の中で血の味がする。血の味がまずいことを久しぶりに感じた。
「ぜんっぜんじゃないですか、お兄さん」口角をあげて、挑発をする。
「貴様……死なねば分からないようだな」拳を握り込むの見えた。
 俺は再度、距離を詰め寄る。今度はこちらから仕掛けるのではなく、あちらから仕掛けてもらう。絶妙なタイミングで避け、カウンター狙い。
その予定だった。そんなのは顔面を殴られたのと同時に砕け散った。
そもそもが反応などできなかったのだ。
それから俺は何度も思考し、考え、手段を実行した。
そのどれもが、茅ヶ崎兄の確かな力と経験、そして、才能で弾き返された。
絨毯の赤よりもっと紅い俺の血が所々に飛び散っている。……茅ヶ崎兄の表情が変わる。
「なぜ、なぜ……倒れん……」それは怖い物を見る弱者の目だった。
「そんなん……決まってんだろ。……俺が、主人公なんだから」
 茅ヶ崎はそこで初めて自ら突進した。今まで防御にしか徹していなかったのに。
それは恐れ故の行為だ。その証拠に、次々振り下ろされる拳からは、
倒れろ! 倒れろ! 倒れろ! 倒れろ! 倒れろ! 倒れろ! 倒れろ! 倒れろ!
という声が聞こえてくる。それでも、俺は決して倒れない。
弱者故の強者。それが今の俺。それでも、弱者なのは変わらない。だから、正直倒れたくてたまらない。でも、そう思うたびに意思が踏み止まる。
「……この世界で一番強いのは……なぁ……柔道、空手。ボクシング、かぽえらでもねぇんだよ。分かるか?」ぽたぽたと血が滴る。……痛ぇ。
「あ……が……があ。こ、これ以上やったらし、死ぬそ?!」
 そう。茅ヶ崎兄もどれだけ強かろうが、一人の人間だ。殺すなんてもっての外だろう。
そこに隙ができる! 俺はここぞとばかりに、一気に踏み込む!
茅ヶ崎兄は手癖で迎撃しようとしたが、俺の傷を見て、やめた。……俺の勝ちだ。
 躊躇う茅ヶ崎兄の顔。踏み込んだ足を軸に一気に腕を振りぬく。
その手が狙うのは急所である顎。しかし、一発で倒せる保証なんてない。
むしろ、倒せない確率の方が高いだろ。でも、俺はこれ以上戦えない。
だから、頼む! この時ばかり祈る罰当たりで悪い。でも、救いたい人が居るから。
会いたい人がいるから。
もし、この世界にラブコメの神様が居るなら俺に少しだけの幸運だけを下さい!
「がぁあっ」顎に俺の拳がぶつかり、仰向けに倒れる。
 数分待つが、起き上がってくる気配は無い。
「ほんっとご都合主義にも程があるな」」……けど、ありがとう。
 でも、これ以上立てる気も歩ける気もしない。血だってかなり流れた。
主人公補正なんて言ってたら、本格的に死ぬ。でも、会いたい。
「お嬢様は奥の部屋です」
「あなたはセバス……さん」いつの間にか、背後に先ほどのご老人が。
「わたくしは文彦坊ちゃんの介抱がありますので……。ナイスファイトでした」
 肩を叩かれ、セバスさんはまたどこかへ消えて行った。良い人じゃないか。
たった数メートル歩くのもきつかったが、足を引きずりながら到達した。
まだ再会してもいないのに、達成感で泣きそうだ。
「坂上……?」
 扉を開けて、目にしたのは円状の机に座っている茅ヶ崎さんの姿だった。
 俺の姿を見て、すぐに彼女は駆け寄ってくれた。そして、俺は甘えるように倒れ掛かる。
 それを支え、耳元で茅ヶ崎は尋ねる。
「どうしたの?! このケガ?! それに、なんでここに?!」
「一度に聞かれても困る。……とりあえず、会いたかったんだ。茅ヶ崎に」
「なんで、なんで……もうお終いって言ったじゃん! なのに、なんでこんな分けわかんない馬鹿な事するの?!」掠れた声で茅ヶ崎は言う。悲痛ではなく慈愛に満ちていた。
「終わりたくないって思ったんだよ。……あの関係を。だから、普段やらないことだって、負けずにやったんだ。だからさ、褒めてくれよ」
「馬鹿! ほんと馬鹿馬鹿馬鹿っ! この馬鹿! こんなケガなんてしちゃったら、私がやったこと無駄になる。……なのに、なのに」
 一呼吸を置いて、茅ヶ崎は俺を抱えている手を強くする。
「嬉しいの……! すっごく嬉しいの。ありがとう……。ありがとう」
「そんな涙声で言うなよ。嬉しいなら笑えよ」
「馬鹿、ほんっと馬鹿なんだから」あぁ。俺が欲しかったのはきっとこれなんだ。
 肩を押し、密着していた体を離れさせる。茅ヶ崎の目は紅くなっていて濡れていた。
その時、チャリンと胸につけてあるネックレスが鳴る。
「それは……」過去の彼女からもらったコインを付けたネックレスだ。
「これは昔、好きだった子にもらったものだ」でも、もう必要ない。
「持っててくれたんだ……」
「へ?」自分でも呆れた声を出した気がする。でも、今――
「ほら、これ」茅ヶ崎も首にかけていたネックレスを見せつける。
 それは俺と過去の彼女が、俺と茅ヶ崎が行った水族館のコインだった。日付も間違いない。それじゃ、俺の初恋の相手は……茅ヶ崎?!
「私は知ってたけどね、だって、あなた変わっていないもの。少しも」
 俺はやっと過去の彼女の笑顔を、表情を思い出した。……ラブコメの神様ありがとう。
「ずっとお礼を言いたかった。ありがとうって。そして、好きですって言いたかった」
 頬に伝る一つの線。それは紛れもない俺自身の涙。茅ヶ崎はそんな涙を拭い、
「私も言いたかった。好きですって」
 互いに引き寄せられ、その距離は――。
「ごほん、あーごっほん、げほげほ!」俺でも茅ヶ崎でもない声gあ響く。
 後ろを振り向くと、義人が立っていた。……なぜ、ここに?
「さすが、学。主人公だったね」
「お前なんで、ここに?!」義人はきょとんとした表情を浮かべさせ、
「そりゃ、僕は茅ヶ崎さんの許嫁だったからね」
「はぁああああああ?!」お前かよ! 茅ヶ崎も驚いているのか、口をポカンと開けている。
「あー。大丈夫。僕には毛頭その気はないから。ほら、今僕ゲームがやりたいし。それにね、茅ヶ崎さんが学を好きだったのは知ってたから、そういう気にもなれないし」
 義人は淡々と自身が知っていることを述べていく。
「そりゃ、幼い頃に会ってたとかは知らなかったけど、好きなのは知ってたよ。だから、僕が提案したんだ。……彼に恋人をお願いしたらどうだって」
 確かめようと茅ヶ崎を見ると、顔を紅くし肯定した。
「う、うん。最初は許嫁と結婚できるまで……で充分だったんだけど、一緒に居るにつれて、その好きになって」
「ま、そういうこと。でも、こんなにはやいなんて……ね。茅ヶ崎さんと学には悪い事したね。父さんには僕から言っておくよ。だから、もう安心していいから」
 それに付け加えて「じゃ、後はお二人で」と気を利かせたのか、去って行く。
「坂上ごめん。ずっと隠していて」それは許嫁のことなのか。過去のことなのか。
「いいんだよ、もう終わったんだから」どっちだとしても、それはもう終わっている。
「でも」気弱そうに喋る茅ヶ崎に指を指し、
「じゃ……俺のお願い聞いてくれ」過去、俺は茅ヶ崎のお願いを聞き、人に優しくなった。
 だから、今度は俺から茅ヶ崎にお願いしてみよう。それが叶うから分からないけど。
「俺の彼女になって欲しい。好きだから。ずっと一緒に居て欲しい」やっと言えた。
困らせるかも、嫌になるかもしれない。それでも、言えた事がなぜか誇らしく感じた。
「それ私のお願いじゃん……」茅ヶ崎はそう、恥ずかし気に言い、笑い、目を閉じた。
 雰囲気を察し、顔と顔の距離を距離を縮める。どうやら俺はラブコメの神様に御礼をしなきゃ駄目みたい。